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養心会の面下に記された「洗心」の文字について

養心会の面下には、元館長田中弥吉先生が揮毫された「洗心」の二文字が端正な筆致で記されています(トップページご参照)。

そもそも「洗心」とは???
文字どおり心を洗うことなのだろう、などと思いつつ新村出編「広辞苑」を引いてみました。ところが、なんと厚さ15センチにもなろうかというあの大辞典のなかにこの「洗心」の二文字を見つけることが出来ません。ただ、いろいろと調べてゆくうちに「洗心」は茶道、即ち茶の湯の世界から出たものらしいということだけは解りました。

抹茶は、もともと道元や栄西など、わが国禅宗の開祖となったお坊さんたちがはるばる中国から持ち帰ったもの。よって茶道の源流は、そもそも禅寺における儀式にその端を発しており、静謐な空間のうちに主人が心静かに茶を点て客人がこれを喫するという一連の様式行為によって構成されています。

茶を点てる際、茶筅を洗いますが、主人は茶筅を洗いつつ己の心をもまた静かに洗うといいます。そして厳かに、かつ清澄な雰囲気のうちに客人をもてなし、「和敬清寂」、客人もまた礼をもってこれに応えます。

この間、無駄な動きは一切なく、しかし流れるように決まるひとつひとつの所作ごとのなかに一面の様式美とともに極めて高い精神性の凝縮を垣間見ることができます。茶道における"一期一会"の言葉が意味するとおり、二度と巡り来ることのないただ一度のこの時、この刹那を大切にし、客人に対し最高のおもてなしを体現することで禅の境地に至るのが茶道の真髄であるといわれ、即ち「洗心」の由来でもあります。

一方、剣道は、わが国においては古来より命のやりとりを伴う剣技、剣術として発達してきたもの。中世以降、戦乱数多な時代、幾多の戦場を駆け巡りながらも奇跡的に生き長らえることの叶った先人たちの、正に血の滲むような研鑽と英知の結集により、相構え、相交える太刀のその剣尖の先に、命のやりとりをも超越し只一筋に精神の高みへといざなう一条の光り輝く道が見出されたのです。そしてこれを禅の境地へと融合させ、さらに長い時間をかけて醸し醸され今日に至ったのがわが国伝統の武道「剣道」であるといえます。

初代館長であった田中弥吉先生からこの「洗心」の二文字を頂戴した私たちは、剣道が竹刀を持った単なる武闘(叩き合い)に終始することのないよう心を洗い、自ら戒め、立ち合いにおいては迷うことなく"一期一会"の精神が体現できるよう、平素より心して修錬、努力してまいりたいと考えております。

なお、ご参考に、「洗心」について、インターネット上で国立国会図書館が公開している「レファレンス協同データベース」に以下のような記載がありました。
「『茶席の禅語大辞典』に、「心の塵を洗いおとすこと。心の煩累を洗い去り浄めること。また、改心すること。『易教』に「聖人は此を以って心を洗う』といい、『後漢書』順帝記には「心を洗う自ず新たなり」とあります。手や顔などを洗うとき、心のけがれを洗い浄めるように観想する(以下略)」とあります。また、『大漢和辞典 巻6』に、「心の煩累を洗い去る。心のけがえれをあらひ清める。又、洗心革面を見よ(以下略)」とあり、出典・用例として「後漢書・順帝記」「後漢書・隗囂傳」「孟浩然の詩」が挙げられています。」

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