〈2月の日程については、本ホームページのカレンダーをご参照ください。〉
〈2月の行事〉
2月7日(日曜日)錬成大会の実行委員会
場所 東板橋体育館3階会議室
時間 14時~
〈3月の行事〉
3月13日(日曜日)板橋区剣道開放団体連合会錬成大会 場所 板橋区立東板橋体育館 開始時間 9時半
集合場所 東武東上線成増駅改札前 集合時間 8時
〈2月の行事〉
2月7日(日曜日)錬成大会の実行委員会
場所 東板橋体育館3階会議室
時間 14時~
〈3月の行事〉
3月13日(日曜日)板橋区剣道開放団体連合会錬成大会 場所 板橋区立東板橋体育館 開始時間 9時半
集合場所 東武東上線成増駅改札前 集合時間 8時
成増に生まれ、育って、早、五十と幾年。
人、誰しも、各々の生まれ故郷を愛し懐かしむように、私もとりたてて大きな特徴もない首都東京の端っこにあるこの小さな町を心から愛している。
ただ単に母方の家系が三百年以上続く成増の原住民であることのみがその理由でもなさそうだ。
成増というところは、武蔵野の一隅にありながら、その海抜20メートル近い台地を荒川とその支流によってえぐり出され、よってその高低差ゆえに、古来そこを行き来する人々が難渋し、足止めを食う土地柄であったことを奇貨として、やがてそれが宿場となり街となって成立した。そのようなところである。
勿論、そればかりではなく、その変化に富んだ地形特有の自然美。西方遥かに秩父の山々の連なり、さらには霊峰富士の雄姿を望み、東に筑波の山なみをみはるかす。四季の移ろいの鮮やかなことこの上なし。
また土地の高低差、ハケとか切通しのようなところがあればそこには自ずと清流が湧き出す。いわば人が住むべくして住みつき。そして街となったといえる。
農家の大きな屋根はその一つ一つがこんもりとした特徴的な防風林の茂みに蔽われ、それらがさながら夕霧に霞みつつ、田野のおちこちに見えつ隠れつしたあの景色は、時代を下った今も心象風景のようにしてよみがえる。
かつてその中心は現在の白子(白子宿)であった。この土地は、古くは江戸、川越を結ぶ往還の半ばに位置する主要な宿場町でもあり、ここには新河岸川から運び上げられた物資を商う数多くの商店等とともに旅館なども集積していた。付近には寺社仏閣も少なからず、それらを詣でる旅人、文人墨客も引きも切らずであったといわれる。ただ大正3年(1914年)の東上線開通以降、その中心は徐々にその開通とともに設置された現在の成増駅周辺へと移行していった。
いずれ、花の都お江戸、東京からもほどよく距離を置き、風光明媚なこの街には、後に名をなす芸術家等も少なからず住み着いた。画家では石川寅治、平山郁夫等がいる。白子には「叱られて・靴が鳴る・雀の学校・みどりのそよ風」等の作で知られる童謡作家清水かつらがいる。
因みに、戦前の日本を代表する物理学者寺田寅彦の紀行文にも成増は登場する。東上線沿線そして当時の成増の様子を垣間見ることが出来る大変貴重な文書である。以下にその一部を転載させていただく。
写生紀行(部分)
寺田寅彦
十一月十日、木曜。池袋(いけぶくろ)から乗り換えて東上線(とうじょうせん)の成増(なります)駅まで行った。途中の景色が私には非常に気にいった。見渡す限り平坦(へいたん)なようであるが、全体が海抜幾メートルかの高台になっている事は、ところどころにくぼんだ谷があるので始めてわかる。そういう谷の所にはきまって松や雑木の林がある。この谷の遠く開けて行くさきには大河のある事を思わせる。畑の中に点々と碁布した民家は、きまったように森を背負って西北の風を防いでいる。なるほど吹きさらしでは冬がしのがれまい。
私の郷里のように、また日本の大部分のように、どちらを見てもすぐ鼻の先に山がそびえていて、わずかの低地にはうっとうしい水田ばかりしかない土地に育ったものには、このような景色は珍しくて、そしていかにも明るく平和にのびのびした感じがする。これと言って特にさすもののないために一見単調なように見えるが、その中にかなり複雑な、しかし柔らかな変化は含まれている。あまりに強い日常の刺激に疲れたものの目にはこのようなながめがまたなくありがたい。
米を食って育っていながらこういう事をいうのはすまないが、水田というものの景色はなぜか私には陰気な不健康な感じを与える。またいくら広くてもその面積はわれわれの下駄(げた)ばきの足を容(い)れる事を許さないために、なんとなく行き詰まった窮屈な感じを与えるが、畑地ならば実際どこでも歩いて行けば行かれると思うだけでも自由なのびやかな気がする。
ねぎや大根が至るところに青々として、麦はまだわずかに芽を出した所があるくらいであった。このあいだまで青かったはずの芋の葉は数日来の霜に凍(い)ててすっかりうだったようになったのが一つ一つ丁寧に結び束ねてあった。
成増でおりて停車場の近くをあてもなく歩いた。とある谷を下った所で、曲がりくねった道路と、その道ばたに榛(はん)の木が三四本まっ黄に染まったのを主題にして、やや複雑な地形に起伏するいろいろの畑地を画布の中へ取り入れた。
帰りに汽車の窓から見た景色は行きとは見違えるほどいっそう美しかった。すべてのものが夕日を浴びて輝いている中にも、分けて谷の西向きの斜面の土の色が名状のできない美しいものに見えた。線路に沿うたとある森影から青い洋服を着て、ミレーの種まく男の着ているような帽子をかぶった若者が、一匹の飴色(あめいろ)の小牛を追うて出て来た。牛の毛色が燃えるように光って見えた。それはどうしてもこの世のものではなくてだれかの名画の中の世界が眼前に生きて動いているとしか思われなかった。
ほとんど感傷的になって見とれている景色の中には、こんなに日が暮れかかってもまだ休まず働いている農夫の家族が幾組となくいた。赤子をおぶって、それをゆさぶるような足取りをして、麦の芽をふんでいる母親たちの姿が哀れに見えた。こうして日の暮れるまで働いておいて朝はもう二時ごろから起きて大根の車のあと押しをして市場へ出るのであろう。
市に近づくに従って空気の濁って来るのが目にも鼻にも感じられた。風のない市の上空には鉛色の煙が物すごくたなびいていた。
もしも事情が許すなら、私はこの広い平坦(へいたん)な高台の森影の一つに小さな小家を建てて、一週のうちのある一日をそこに過ごしたいと思ったりした。これまでいろいろのいわゆる勝地に建っている別荘などを見ても、自分の気持ちにしっくりはまるようなものはこれと言って頭にとどまっていない。海岸は心騒がしく、山の中は物恐ろしい。立派な大廈高楼(たいかこうろう)はどうも気楽そうに思われない。頼まれてもそういう所に住む気にはなれそうもない。しかしこの平板な野の森陰の小屋に日当たりのいい縁側なりヴェランダがあってそこに一年のうちの選ばれた数日を過ごすのはそんなに悪くはなさそうに思われた。
ついそんな田園詩の幻影に襲われたほどにきょうの夕日は美しいものであった。
長い間宅(うち)にばかりくすぶっていて、たまたまこのよい時節に外の風に吹かれると気持ちはいいようなものの、あまりに美しい自然とそこにも付きまとう世の中の刺激が病余の神経には少しききすぎるようでもある。もうそろそろ寒くはなるし、写生行もしばらく中止していよいよ静物でもやり始めなければなるまいと思っている。
(大正十一年一月、中央公論)
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底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年2月5日第1刷発行
1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行
1997(平成9)年12月15日第81刷発行
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。
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私がまだ幼い子供だった昭和30年代、当時の成増駅駅舎は現在より僅かばかり和光市駅(当時は大和町)寄りに在った。敢えてその位置を特定するのであれば、現在の成増駅南口を出てロータリーを右に折れ、商店街へと下るだらだらの坂の切れ目、今もある不二越という喫茶店の手前右側が駅への入り口であった。
当時、駅への入り口はこの南側一か所しかなく、駅舎はごく素朴な木造平屋建て。プラットホームは構内踏切のある上下方向別単式ホームであったと記憶している。寺田博士がこの紀行文をものしたのは、それを遡ること、さらに35、6年も以前ということになるが、それにしても、駅への出入り口はこの南側一か所のみであったと推定される。
博士は 成増駅を出ると、「停車場近くをあてもなく歩いた」とのことだが、そこで出会った「とある谷」というのも、恐らく、駅からそう遠いところではなかろう。
現在では既に暗渠化されており少々分かりにくくはあるが、成増駅北側の地形は駅反対側の高台から見るとかなりの高低差をもって急激に落ち込んでいることが分かるはずだ。かつて、その谷底には現在の光が丘公園敷地内を水源とする通称百々向川(ズズムキガワ)が流れていた(西友の裏手にある成増公園の辺りが本来の地面の高さである。川は公園の南側の道路に沿い今もその地下を人知れず流れ続けている。)。私自身、子供の頃の記憶にもそこから白子川分流に向かい誠に形の良い渓谷美を形成していたものだった(今は見る影もないが)。
谷沿いの道を川の流れとともに少し下った右側は現在の赤塚第二中学校そして成増ケ丘小学校がある緩やかな丘陵地帯であり、博士が訪れたその当時はまだ畑地であったろう。正に一帯はやや「複雑な地形に起伏」しているのである。流れに沿ってさらに少し行けば、その両岸には根付きの良い古い桜並木や姿の良い松が林立する小山など、今では観光地に行かなければちょっと見ることの出来ないような美しい風景が、私が幼かった当時はまだ存在していた。
博士は、そんな谷あいの曲がりくねった道を辿りつつ、道端に鮮やかに色づいた榛(はん)の木の群生に行き当たり、色々に起伏する畑地の面白さをバックに一気にこれを画布(カンバス)に写し取ったに相違ない。
成増から徒歩15分程度、白子の台地上に理化学研究所があるが、寺田博士との縁浅からぬものを感じさせられる。
人、誰しも、各々の生まれ故郷を愛し懐かしむように、私もとりたてて大きな特徴もない首都東京の端っこにあるこの小さな町を心から愛している。
ただ単に母方の家系が三百年以上続く成増の原住民であることのみがその理由でもなさそうだ。
成増というところは、武蔵野の一隅にありながら、その海抜20メートル近い台地を荒川とその支流によってえぐり出され、よってその高低差ゆえに、古来そこを行き来する人々が難渋し、足止めを食う土地柄であったことを奇貨として、やがてそれが宿場となり街となって成立した。そのようなところである。
勿論、そればかりではなく、その変化に富んだ地形特有の自然美。西方遥かに秩父の山々の連なり、さらには霊峰富士の雄姿を望み、東に筑波の山なみをみはるかす。四季の移ろいの鮮やかなことこの上なし。
また土地の高低差、ハケとか切通しのようなところがあればそこには自ずと清流が湧き出す。いわば人が住むべくして住みつき。そして街となったといえる。
農家の大きな屋根はその一つ一つがこんもりとした特徴的な防風林の茂みに蔽われ、それらがさながら夕霧に霞みつつ、田野のおちこちに見えつ隠れつしたあの景色は、時代を下った今も心象風景のようにしてよみがえる。
かつてその中心は現在の白子(白子宿)であった。この土地は、古くは江戸、川越を結ぶ往還の半ばに位置する主要な宿場町でもあり、ここには新河岸川から運び上げられた物資を商う数多くの商店等とともに旅館なども集積していた。付近には寺社仏閣も少なからず、それらを詣でる旅人、文人墨客も引きも切らずであったといわれる。ただ大正3年(1914年)の東上線開通以降、その中心は徐々にその開通とともに設置された現在の成増駅周辺へと移行していった。
いずれ、花の都お江戸、東京からもほどよく距離を置き、風光明媚なこの街には、後に名をなす芸術家等も少なからず住み着いた。画家では石川寅治、平山郁夫等がいる。白子には「叱られて・靴が鳴る・雀の学校・みどりのそよ風」等の作で知られる童謡作家清水かつらがいる。
因みに、戦前の日本を代表する物理学者寺田寅彦の紀行文にも成増は登場する。東上線沿線そして当時の成増の様子を垣間見ることが出来る大変貴重な文書である。以下にその一部を転載させていただく。
写生紀行(部分)
寺田寅彦
十一月十日、木曜。池袋(いけぶくろ)から乗り換えて東上線(とうじょうせん)の成増(なります)駅まで行った。途中の景色が私には非常に気にいった。見渡す限り平坦(へいたん)なようであるが、全体が海抜幾メートルかの高台になっている事は、ところどころにくぼんだ谷があるので始めてわかる。そういう谷の所にはきまって松や雑木の林がある。この谷の遠く開けて行くさきには大河のある事を思わせる。畑の中に点々と碁布した民家は、きまったように森を背負って西北の風を防いでいる。なるほど吹きさらしでは冬がしのがれまい。
私の郷里のように、また日本の大部分のように、どちらを見てもすぐ鼻の先に山がそびえていて、わずかの低地にはうっとうしい水田ばかりしかない土地に育ったものには、このような景色は珍しくて、そしていかにも明るく平和にのびのびした感じがする。これと言って特にさすもののないために一見単調なように見えるが、その中にかなり複雑な、しかし柔らかな変化は含まれている。あまりに強い日常の刺激に疲れたものの目にはこのようなながめがまたなくありがたい。
米を食って育っていながらこういう事をいうのはすまないが、水田というものの景色はなぜか私には陰気な不健康な感じを与える。またいくら広くてもその面積はわれわれの下駄(げた)ばきの足を容(い)れる事を許さないために、なんとなく行き詰まった窮屈な感じを与えるが、畑地ならば実際どこでも歩いて行けば行かれると思うだけでも自由なのびやかな気がする。
ねぎや大根が至るところに青々として、麦はまだわずかに芽を出した所があるくらいであった。このあいだまで青かったはずの芋の葉は数日来の霜に凍(い)ててすっかりうだったようになったのが一つ一つ丁寧に結び束ねてあった。
成増でおりて停車場の近くをあてもなく歩いた。とある谷を下った所で、曲がりくねった道路と、その道ばたに榛(はん)の木が三四本まっ黄に染まったのを主題にして、やや複雑な地形に起伏するいろいろの畑地を画布の中へ取り入れた。
帰りに汽車の窓から見た景色は行きとは見違えるほどいっそう美しかった。すべてのものが夕日を浴びて輝いている中にも、分けて谷の西向きの斜面の土の色が名状のできない美しいものに見えた。線路に沿うたとある森影から青い洋服を着て、ミレーの種まく男の着ているような帽子をかぶった若者が、一匹の飴色(あめいろ)の小牛を追うて出て来た。牛の毛色が燃えるように光って見えた。それはどうしてもこの世のものではなくてだれかの名画の中の世界が眼前に生きて動いているとしか思われなかった。
ほとんど感傷的になって見とれている景色の中には、こんなに日が暮れかかってもまだ休まず働いている農夫の家族が幾組となくいた。赤子をおぶって、それをゆさぶるような足取りをして、麦の芽をふんでいる母親たちの姿が哀れに見えた。こうして日の暮れるまで働いておいて朝はもう二時ごろから起きて大根の車のあと押しをして市場へ出るのであろう。
市に近づくに従って空気の濁って来るのが目にも鼻にも感じられた。風のない市の上空には鉛色の煙が物すごくたなびいていた。
もしも事情が許すなら、私はこの広い平坦(へいたん)な高台の森影の一つに小さな小家を建てて、一週のうちのある一日をそこに過ごしたいと思ったりした。これまでいろいろのいわゆる勝地に建っている別荘などを見ても、自分の気持ちにしっくりはまるようなものはこれと言って頭にとどまっていない。海岸は心騒がしく、山の中は物恐ろしい。立派な大廈高楼(たいかこうろう)はどうも気楽そうに思われない。頼まれてもそういう所に住む気にはなれそうもない。しかしこの平板な野の森陰の小屋に日当たりのいい縁側なりヴェランダがあってそこに一年のうちの選ばれた数日を過ごすのはそんなに悪くはなさそうに思われた。
ついそんな田園詩の幻影に襲われたほどにきょうの夕日は美しいものであった。
長い間宅(うち)にばかりくすぶっていて、たまたまこのよい時節に外の風に吹かれると気持ちはいいようなものの、あまりに美しい自然とそこにも付きまとう世の中の刺激が病余の神経には少しききすぎるようでもある。もうそろそろ寒くはなるし、写生行もしばらく中止していよいよ静物でもやり始めなければなるまいと思っている。
(大正十一年一月、中央公論)
________________________________________
底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年2月5日第1刷発行
1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行
1997(平成9)年12月15日第81刷発行
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。
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私がまだ幼い子供だった昭和30年代、当時の成増駅駅舎は現在より僅かばかり和光市駅(当時は大和町)寄りに在った。敢えてその位置を特定するのであれば、現在の成増駅南口を出てロータリーを右に折れ、商店街へと下るだらだらの坂の切れ目、今もある不二越という喫茶店の手前右側が駅への入り口であった。
当時、駅への入り口はこの南側一か所しかなく、駅舎はごく素朴な木造平屋建て。プラットホームは構内踏切のある上下方向別単式ホームであったと記憶している。寺田博士がこの紀行文をものしたのは、それを遡ること、さらに35、6年も以前ということになるが、それにしても、駅への出入り口はこの南側一か所のみであったと推定される。
博士は 成増駅を出ると、「停車場近くをあてもなく歩いた」とのことだが、そこで出会った「とある谷」というのも、恐らく、駅からそう遠いところではなかろう。
現在では既に暗渠化されており少々分かりにくくはあるが、成増駅北側の地形は駅反対側の高台から見るとかなりの高低差をもって急激に落ち込んでいることが分かるはずだ。かつて、その谷底には現在の光が丘公園敷地内を水源とする通称百々向川(ズズムキガワ)が流れていた(西友の裏手にある成増公園の辺りが本来の地面の高さである。川は公園の南側の道路に沿い今もその地下を人知れず流れ続けている。)。私自身、子供の頃の記憶にもそこから白子川分流に向かい誠に形の良い渓谷美を形成していたものだった(今は見る影もないが)。
谷沿いの道を川の流れとともに少し下った右側は現在の赤塚第二中学校そして成増ケ丘小学校がある緩やかな丘陵地帯であり、博士が訪れたその当時はまだ畑地であったろう。正に一帯はやや「複雑な地形に起伏」しているのである。流れに沿ってさらに少し行けば、その両岸には根付きの良い古い桜並木や姿の良い松が林立する小山など、今では観光地に行かなければちょっと見ることの出来ないような美しい風景が、私が幼かった当時はまだ存在していた。
博士は、そんな谷あいの曲がりくねった道を辿りつつ、道端に鮮やかに色づいた榛(はん)の木の群生に行き当たり、色々に起伏する畑地の面白さをバックに一気にこれを画布(カンバス)に写し取ったに相違ない。
成増から徒歩15分程度、白子の台地上に理化学研究所があるが、寺田博士との縁浅からぬものを感じさせられる。
会員各位
標記の件について、Bulletin Board(会員限定)に掲示いたしましたのでご確認ください(⇒☆Bulletin Board (会員限定))。
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『剣道に特定の思想はない。ただ態度があるだけだ。「一生懸命にやる。必死でやる、命がけでやる。」という態度があるだけだ。何に一生懸命になるか、何に命を懸けるかは、自分で探してもらいたい。』(成増養心館初代館長 吉田寅之助)
このことばの含意を、改めて自らの心に問うてみたい。
このことばの含意を、改めて自らの心に問うてみたい。
例年にも増して温かく穏やかな元日の朝。鳥飼先生、宇田先生をお迎えし、有志による元旦稽古を挙行いたしました。
→☆平成28年元旦稽古
→☆平成28年元旦稽古