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成増 “ なります ”

成増に生まれ、育って、早、五十と幾年。
人、誰しも、各々の生まれ故郷を愛し懐かしむように、私もとりたてて大きな特徴もない首都東京の片隅にあるこの小さな町を心から愛している。
ただ単に母方の家系が三百年以上続く成増の原住民であることのみがその理由でもなさそうだ。

成増というところは、武蔵野の一隅にありながら、その海抜20メートル近い台地を荒川とその支流によってえぐり出され、よってその高低差ゆえに、古来そこを往き来する人々が難渋し、足止めを食う土地柄であったことを奇貨として、やがてそれが宿場となり街となって成立した。そのようなところである。

勿論、そればかりではなく、その変化に富んだ地形特有の自然美。西方遥かに秩父の山々の連なり、さらには霊峰富士の雄姿を望み、東に筑波の山なみをみはるかす。四季の移ろいの鮮やかなことこの上なし。

また土地の高低差、ハケとか切通しのようなところがあればそこには自ずと清流が湧き出す。いわば人々が住むべくして住みつき。そして街となったといえる。

農家の大きな屋根はその一つ一つがこんもりとした特徴的な防風林の茂みに蔽われ、それらがさながら夕霧に霞みつつ、田野のおちこちに見えつ隠れつしたあの景色は、時代を下った今も心象風景のようにしてよみがえる。

かつて、その中心は現在の白子(白子宿)であった。この土地は、古くは江戸、川越を結ぶ往還の半ばに位置する主要な宿場町でもあり、ここには新河岸川から運び上げられた物資を商う数多くの商店等とともに旅館なども集積していた。付近には寺社仏閣も少なからず、それらを詣でる旅人、文人墨客も引きも切らずであったといわれる。ただ大正3年(1914年)の東上線開通以降、その中心は徐々にその開通とともに設置された現在の成増駅周辺へと移行していった。

いずれ、花の都お江戸、東京からもほどよく距離を置き、風光明媚なこの街には、後に名をなす芸術家等も少なからず住み着いた。画家では石川寅治、平山郁夫等がいる。白子には「叱られて・靴が鳴る・雀の学校・みどりのそよ風」等の作で知られる童謡作家清水かつらがいる。

因みに、戦前の日本を代表する物理学者寺田寅彦の紀行文にも成増は登場する。東上線沿線そして当時の成増の様子を垣間見ることが出来る大変貴重な文書である。以下にその一部を転載させていただく。


写生紀行(部分)
                                寺田寅彦

 十一月十日、木曜。池袋(いけぶくろ)から乗り換えて東上線(とうじょうせん)の成増(なります)駅まで行った。途中の景色が私には非常に気にいった。見渡す限り平坦(へいたん)なようであるが、全体が海抜幾メートルかの高台になっている事は、ところどころにくぼんだ谷があるので始めてわかる。そういう谷の所にはきまって松や雑木の林がある。この谷の遠く開けて行くさきには大河のある事を思わせる。畑の中に点々と碁布した民家は、きまったように森を背負って西北の風を防いでいる。なるほど吹きさらしでは冬がしのがれまい。
 私の郷里のように、また日本の大部分のように、どちらを見てもすぐ鼻の先に山がそびえていて、わずかの低地にはうっとうしい水田ばかりしかない土地に育ったものには、このような景色は珍しくて、そしていかにも明るく平和にのびのびした感じがする。これと言って特にさすもののないために一見単調なように見えるが、その中にかなり複雑な、しかし柔らかな変化は含まれている。あまりに強い日常の刺激に疲れたものの目にはこのようなながめがまたなくありがたい。
 米を食って育っていながらこういう事をいうのはすまないが、水田というものの景色はなぜか私には陰気な不健康な感じを与える。またいくら広くてもその面積はわれわれの下駄(げた)ばきの足を容(い)れる事を許さないために、なんとなく行き詰まった窮屈な感じを与えるが、畑地ならば実際どこでも歩いて行けば行かれると思うだけでも自由なのびやかな気がする。
 ねぎや大根が至るところに青々として、麦はまだわずかに芽を出した所があるくらいであった。このあいだまで青かったはずの芋の葉は数日来の霜に凍(い)ててすっかりうだったようになったのが一つ一つ丁寧に結び束ねてあった。
 成増でおりて停車場の近くをあてもなく歩いた。とある谷を下った所で、曲がりくねった道路と、その道ばたに榛(はん)の木が三四本まっ黄に染まったのを主題にして、やや複雑な地形に起伏するいろいろの畑地を画布の中へ取り入れた。
 帰りに汽車の窓から見た景色は行きとは見違えるほどいっそう美しかった。すべてのものが夕日を浴びて輝いている中にも、分けて谷の西向きの斜面の土の色が名状のできない美しいものに見えた。線路に沿うたとある森影から青い洋服を着て、ミレーの種まく男の着ているような帽子をかぶった若者が、一匹の飴色(あめいろ)の小牛を追うて出て来た。牛の毛色が燃えるように光って見えた。それはどうしてもこの世のものではなくてだれかの名画の中の世界が眼前に生きて動いているとしか思われなかった。
 ほとんど感傷的になって見とれている景色の中には、こんなに日が暮れかかってもまだ休まず働いている農夫の家族が幾組となくいた。赤子をおぶって、それをゆさぶるような足取りをして、麦の芽をふんでいる母親たちの姿が哀れに見えた。こうして日の暮れるまで働いておいて朝はもう二時ごろから起きて大根の車のあと押しをして市場へ出るのであろう。
 市に近づくに従って空気の濁って来るのが目にも鼻にも感じられた。風のない市の上空には鉛色の煙が物すごくたなびいていた。
 もしも事情が許すなら、私はこの広い平坦(へいたん)な高台の森影の一つに小さな小家を建てて、一週のうちのある一日をそこに過ごしたいと思ったりした。これまでいろいろのいわゆる勝地に建っている別荘などを見ても、自分の気持ちにしっくりはまるようなものはこれと言って頭にとどまっていない。海岸は心騒がしく、山の中は物恐ろしい。立派な大廈高楼(たいかこうろう)はどうも気楽そうに思われない。頼まれてもそういう所に住む気にはなれそうもない。しかしこの平板な野の森陰の小屋に日当たりのいい縁側なりヴェランダがあってそこに一年のうちの選ばれた数日を過ごすのはそんなに悪くはなさそうに思われた。
 ついそんな田園詩の幻影に襲われたほどにきょうの夕日は美しいものであった。

 長い間宅(うち)にばかりくすぶっていて、たまたまこのよい時節に外の風に吹かれると気持ちはいいようなものの、あまりに美しい自然とそこにも付きまとう世の中の刺激が病余の神経には少しききすぎるようでもある。もうそろそろ寒くはなるし、写生行もしばらく中止していよいよ静物でもやり始めなければなるまいと思っている。
(大正十一年一月、中央公論)
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底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年2月5日第1刷発行
   1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行
   1997(平成9)年12月15日第81刷発行
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。

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私がまだ幼い子供だった昭和30年代、当時の成増駅駅舎は現在より僅かばかり和光市駅(当時は大和町)寄りに在った。敢えてその位置を特定するのであれば、現在の成増駅南口を出てロータリーを右に折れ、商店街へと下るだらだらの坂の切れ目、今もある不二越という喫茶店の手前右側が駅への入り口であった。

当時、駅入り口はこの南側一か所しかなく、駅舎はごく素朴な木造平屋建て。プラットホームは構内踏切のある上下方向別単式ホームであったと記憶している。寺田博士がこの紀行文をものしたのは、それを遡ること、さらに40年以上も前ということになるが、それにしても、駅への出入り口は、以下にも記載した事情により、この南側一か所のみであったと推定される。

博士が、「停車場近くをあてもなく歩いた」末に辿り着いた「とある谷」は、おそらく駅の反対側、しかも駅からさほど距離を置かぬところに存在していたものと思われる。

現在では既に暗渠化されており少々分かりにくくはあるが、成増駅北側の地形は駅反対側の高台から見るとかなりの高低差をもって急激に落ち込んでいることが分かるはずだ。かつて、その谷底には現在の光が丘公園敷地内を水源とする通称百々向川(ズズムキガワ)が流れていた(西友の裏手にある成増公園の辺りが本来の地面の高さである。川は公園の南側の道路に沿い今もその地下を人知れず流れ続けている。)。私自身、子供の頃の記憶にも、そこから白子川分流に向かい誠に形の良い渓谷美が形成されていたものだった(今は見る影もないが)。

谷沿いの道を川の流れとともに少し下った右側は現在の赤塚第二中学校そして成増ケ丘小学校がある緩やかな丘陵地帯であり、博士が訪れたその当時はまだ畑地であったろう。正に一帯はやや「複雑な地形に起伏」しているのである。流れに沿ってさらに少し行けば、その両岸には根付きの良い古い桜並木や姿の良い松が林立する小山など、今では観光地に行かなければそう簡単には見ることの出来ないような美しい風景が、私が幼かった当時はまだ存在していた。

博士は、そんな谷あいの曲がりくねった道を辿りつつ、道端に鮮やかに色づいた榛(はん)の木の群生に行き当たり、色々に起伏する畑地の面白さをバックに一気にこれを画布(カンバス)に写し取ったに相違ない。

成増駅から徒歩15分程度、白子の西側の台地上に理化学研究所があるが、寺田博士との縁浅からぬものを感じさせられる。


※成増駅と北口の住民
成増駅北側の人々はどうやって電車に乗ったのか。
当時、成増駅は、南側一ヶ所しか入り口がなかったと書いた。確かにそのとおりで、北口の菅原神社付近に住まいする私たちは、駅へと続く長い桜並木(今は、それら殆どが伐採され、ほんの僅か、ごく一部を残しその姿を殆どとどめていない。)を10分ほども歩き、今も駅の西側にある踏切を渡り切った直ぐのところ(パチンコ屋さん(かつては映画館)の手前)を左折し、線路沿いの道を辿り駅舎へと向かうことができた。今となっては実に狭く、人通りも殆どなく、ただの裏通りといった風情にしか見えないが、かつては、縁日(付近の神社の祭礼)などがあれば、線路沿いのこの場所に軒並み夜店が立ったものだった。
 
※百々向川
全国に同様の名の河川がある。ドド、ズズムキ、ドウメキなどと呼称する。川の流れが折れ曲がり、高低差等により急激であり、そこを流れる水がドウドウと激しい音を立てたところから来ているとも云われている。

※「ズズムキ(百向)」⇒「ズウコウ(百向)」
成増駅から菅原神社方面へと向かう道筋は山側と谷側の二つのルートがある。大袈裟に山側、谷側と書いたが、幼かった当時の私にすれば、それぞれ辿る道の高低差や周囲の景色など、それが決して大袈裟とは言えないほどに変化に富み美しいものであったのだ。誰がつけたか、往古より「ズズムキ」と呼ばれたこの川は、ちょうどこの(山側の)道と交差する辺りで、流れの向きを僅かに白子川分流方面に向けて左方へと振っていく。この小さな、短い川にとって、この場所こそが最もドラマチックな場面ではなかったか。なぜなら、この先は、地形そのものがかなりの落差をもって急激に落ち込んでおり、「ズズムキ」はその落差を一条の滝となって一機に流れくだっていたのである。この道をとおる子供等の耳には、流れをくだり落ちていく滝の音が恐ろしいくらいに響き渡っていたことを今も鮮明に記憶している。その落ちゆく川の周囲の斜面一帯には、秋ともなれば無数のススキの穂が風に揺れていた。成増ヶ丘小学校は当時から、子供たちが住んでいる地域ごとに子供会を組成しており、この滝を下った辺り、左側の一帯は、元々「ズウコウ」と呼ばれており、この辺りの子供会の名称もそのまま「ズウコウ」と呼ばれていた。この「ズウコウ」は漢字で「百向」と表記され、「ズズムキ」と同義である。つまり、かつてここに有った小さな滝(河川)の名前が、地域の、そして地域の子供会の名として残されたのである。先に滝の周囲一帯がススキの原であったと書いたが、「ズズムキ」のズズは、当時、子供たちが、親にススキの実を剥いて糸でつないで作ってもらった数珠(じゅず)とも符合する。なお、今も白子川分流跡に残されている瑞光橋の名称は、このズウコウの名が美化され転じたものである。地元の人々は、今もこの周囲一帯を「ズウコウ」と呼んでいる。